生活的答案

旅行記録ブログ

タイムマシーンに乗って押角駅へ行く

2010年12月10日16時37分

私は日没後の暗い山道を突き進むバスの中にいた。客は私1人。

険しい山道は急カーブの連続で、運転手はその道のプロだと分かっていても少しヒヤヒヤした。しかもたまに道沿いに祠のようなものが建っているのが見える。やっぱりこの急カーブで事故でもあってその鎮魂的な意味合いがあるんじゃないか!?と勘ぐって少し怖くなるけれど、さすがにそんなことは言えない。そうこうしているうちに何度目かのトンネルに突入した。

「お客さん、押角駅へ行きたいんだよね?今通ってるのは“おしかど”トンネルだよ。読みは押角駅と同じだけど、オスにシカにトで、雄鹿戸。なんでかは知らないけれど、漢字が違うんですよ」

へえ。漢字が違うんですね、おもしろい。どうしてなんでしょうね。どうして?どうして。どうして、私は山道を走るバスに乗っているのか。。。

 

 

当時ウラ若き乙女であった私は、進学を機に東京(へのアクセスが比較的良いとされている郊外)で憧れの一人暮らしを開始。同時に人生初の電車通学も開始すると、もともとそういう気質があったのか、地元の超車社会では味わえなかった鉄道の魅力に目覚めた。そして日々あちこちの鉄道に足を伸ばしてはゆるゆると乗り鉄を楽しんでいた。

ある日いつものように鉄旅指南本をパラパラと読んでいると、日本屈指の秘境ローカル線として岩手県の山間部を走る「JR岩泉線」が紹介されていた。

当時は秘境駅(鉄道以外でのアクセスが困難な秘境のような場所にポツンとある駅のこと)ブームが全盛で、秘境駅を巡る秘境号なんて名前の列車が走ったりもしていた。にわか鉄道ファンの私もブームに乗って秘境駅には興味津々だったので、この岩泉線情報には食いついた。

当時の岩泉線の運行本数は1日に4往復のみ。それも秘境ローカル線としての注目が高まってのことで、少し前までは3往復だったという。起点の茂市駅から終点の岩泉駅までの9つの駅はどれも秘境駅ノミネート確実という具合なのだが、その中でも一際目を引いたのが「押角駅」という駅だった。なんでも月間の乗降者数が数人だという。1日ではなく、月に数人である。一体どんな駅なんだ!と記事を読み込むと、駅としての構造物は板張りの短いホームのみで駅舎はおろか待合室すらない。写真を見る限り周りは緑に囲まれていて、人の暮らしの気配は一切ない。

これはなんだか凄そうだ!タイミングよくちょうど明日の12月10日は青春18きっぷの冬季の利用開始日だ。思い立ったが吉日、早速ここへ行こうじゃないか!とはいえ1日に数本しか列車が来ない駅で下車する勇気はないので(こんな場所ではクマも人間も怖い!)押角駅の様相は車内からじっと見るに留めて、終点の岩泉駅まで乗って折り返そう。

そんなわけでいそいそと準備をして、早速岩手まで足を運んだ。

 

岩手までは夜行バスを利用したのだが、盛岡駅前で下車した瞬間に冬の東北の洗礼を受けた。

ろくに天気予報も見ずにバスに乗り込んだものだから、関東の初冬にあわせた薄手のコートに寒冷地仕様ではないファストファッションのブーツという出で立ちだった。さ、寒い!と凍えながら歩き始めた瞬間に凍った路面で転倒した。まだ朝早い駅前で空いている店は少なく、半泣きで24時間営業の牛丼屋で朝食を食べてから開店と同時に駅ビルに駆け込んで安価なフリースを購入したのを覚えている。

 

岩泉線に乗るにはまずは盛岡駅から山田線に乗車する必要があり、途中の茂市(もいち)駅から岩泉線に乗り換えることができる。かなりおおまかな図だけど、だいたいこんな感じ。

当時の路線図(ざっくり)

 

山田線宮古行きの車両はキハ100形で、ひとり掛けの席を確保できた。天気も良く、楽しい鉄道旅の始まりに心を踊らせた。

盛岡駅ホーム

山間部に入ると、日が当たらないエリアでは雪が積もり始めていた

 

押角駅と同じく本の中で「スゴイ秘境駅」として紹介されていた山田線の大志田駅と浅岸駅も車内から駅と周辺を眺めることができた。両駅とも下車する人はおらず、周囲に崩れかけの廃屋や学校跡と思しきものは見えたが今も人が住んでいる気配はなかった。なるほど、この侘しさは確かにスゴイ。こうなってくるとポツリと森の中にあるという押角駅はどれほどの哀愁を放っているのか、期待は高まるばかりである。

 

茂市駅

13時前に茂市駅に到着した。次の岩泉行きは15時40分なので、なんと4時間弱の待ち時間が発生する。なんという接続の悪さだろうか。

次の岩泉行きは15時40分

乗ってきた列車を見送る

時間が有り余っているので駅を探索。

駅の外観

駅の前には川が流れている

暇だ。

天気予報は見ていなくても時刻表は確認していたので、こうなることを見越して行きがてらに小説を1冊購入していた。この旅唯一の私のGJポイントである。

茂市駅の待合室

待合室で1人で本読んでいると、駅員さんが「ストーブ点けますか?」と尋ねてくれた。正直冬の岩手の寒さに凍え切っていたが、「いえいえ!大丈夫です」と反射的に強がってしまいその後数時間を凍えながら過ごした。当時の私は若さ故の自意識過剰さなのか変な部分で気にしいなところがあった。今でこそ旅先でのソロ自撮りもお手の物だが、当時はカメラを出すこと自体にも気恥ずかしさを感じていたので旅中の写真も少ない。もったいない気もするけれど、その分を補うように肉眼で景色をよく見ていたし、その詳細なメモも残っている。そのおかげで12年も経った今こうしてブログを書くことができていると言えなくもない、のかもしれない……

 

15時を過ぎる頃には読書にも飽きてきて、少し早いけどそろそろ…とホームに向かおうとしたところを駅員さんに引き止められた。

「岩泉方面へお出でですか?」

『そうです。15時40分のに乗ります。』

「列車は走っていないので、代行バスに乗ってください」

!?

ここまで来て衝撃の事実が発覚した。なんと岩泉線はこの年の夏に起こった土砂災害により脱線事故を起こして不通となっていたのだ。

ショック!岩泉線に乗れないことよりも、少し調べれば分かることすら調べずに本を読んで浮かれたまま岩手の山奥まで来た自分が情けなくて泣きたくなった。とはいえここまで来たのだ。押角駅の姿は見れずとも、とりあえずバスで岩泉までは行っておこう…。

 

時間になるとバスがやってきた。バスと言ってもよくある路線バスのような車体ではなく、ワゴン車のような小型バスである。ほかに乗客は3名ほど地元のマダムが乗っていた。全員が知り合いのようで、方言でおしゃべりに花を咲かせている。このメンバーでバスは発車した。

地元民からしたら「見知らぬ顔が乗ってるぞ…誰だよ…」という感じなのではないかと勝手にヒヤヒヤしていたが茂市駅を発車してから10分程度でマダムたちは下車した。乗客が私ひとりになると、いたたまれない空気を察してか運転手の男性が話しかけてくれた。

「お客さん、鉄道ファンですね?」

『そうです』

ビンゴである。わざわざ不便な鉄道でやってくる見慣れぬ顔は大抵鉄道好きなのだという。

「で、まだ鉄道ファン初心者だ。岩泉線が動いてないことを知らずにやってきた」

『はい……』

完全に見抜かれていた。お察しの通り鉄道ニワカファンで押角駅目当てにやってきました…。と告げるとなんと運転手さん、「やっぱりね。そうだ、岩泉駅で折り返す時にほかに乗客が居なかったら、茂市駅に戻る前に押角駅に寄ってあげるよ」と言う。このバスは岩泉線の代行バスなので押角駅も停留所としては存在しているが、鉄道が動いていない今わざわざ押角駅から乗る人間など居るはずもないので基本的にはスルーして運行しているようだった。それなのに、もし他に乗客が居なければ押角駅に立ち寄ってくれるというのだ。嬉しい申し出にストーブの時のような遠慮思考は吹き飛び、有り難うございます!とペコペコしながら、岩泉駅で乗客が乗ってこないことを祈った。

 

40代後半だという運転手さんはフランクで話しやすく、会話が弾んだ。

「自分も、若い頃はお客さんみたいに鉄道で旅をしたもんですよ」

『そうなんですか。どんな場所へ行かれたんですか』

「色々行ったけれど、北海道を回った鉄道の旅をよく覚えてますよ。列車で向かい合わせの席に座ってる女の人が『靴脱いで足伸ばしていいよ』って言ってくれたこと。金もないから風呂もろくに入らずに旅してるから身なりだって綺麗じゃないのにだよ。へとへとに疲れていたからお言葉に甘えて足を伸ばしたけれど、臭かっただろうに女の人は嫌な顔ひとつせずに『足疲れてるでしょ、気にしないでね』って。あの頃は人々の心に余裕があって、良い時代でしたよ」

話を聞きいていると見てもいないその光景が何故か目に浮かんできて、大切な旅の思い出のおこぼれをいただけたような不思議な気分だった。

 

 

16時を過ぎると一気に周囲が暗くなり始めた。等間隔に設置された街頭はあっても、冬の夕方の山道は暗い。

「終点の岩泉駅は、住民が立ち上がって作られた駅なんですよ」

もともとは1957年に岩泉駅から2つ手前の浅内駅が竣工した時点で「岩泉線、完成でござい!」となったが、岩泉町の住民たちが「町の中心まで鉄道が来ないなんてそりゃないぜ!」と猛烈な建設運動を展開。その結果岩泉駅までの区間も着工されて、今の岩泉線となったという。

なんともパワフルな話はそこでは終わらず、さらに岩泉駅から太平洋沿岸部の小本駅への延長計画まであったとのこと。乗客が減少し続けてる今となっては更なる延長なんて夢のまた夢という感じだが、岩泉線、知れば知るほど趣深い路線である。もっとも、この程度の知識は身につけてからここへ来るべきなのだろうが…。

 

 

すぐに完全に日が暮れて周囲が闇に包まれた。自分でハンドルを握っていなくても、ぐねぐね曲がる暗い山道は恐ろしい。

「お客さん、ほら、あの光ってるやつが押角駅ですよ」

そう言われて窓の外を見てみると一面の真っ黒闇の遠い向こうに白い点がぽつんとあった。それが押角駅の灯りだという。

その光を見た瞬間、心を掴まれた。ささやかなはずの光が、夜の山があまりに暗すぎて煌々と光って見える。夜の山の真っ暗な闇の中であの灯りに辿り着いたらどれ程安心するのだろう。

でもあの灯りの元に人は来ない。そもそも人が住んでいない。鉄道も動いていないから外から来る人もいない。それでも駅には誰かを待つ使命があるから、山の中でポツンと光りながら、やって来るかもしれない誰かを待っているのか。

なんてむなしくて健気な佇まいなんだろうか。。。

 

 

 

17時頃、バスは岩泉駅に到着。折り返しの発車時刻まで駅の中を探索した。

ローカル線とは思えぬ、立派で大きな駅

木彫りの牛の首が置いてあった

終点なのに駅名標が先へ伸びている。延長計画の名残だろうか

延長予定があった方向を望む。何も見えない

折り返しのバスには学生数名が乗車したため、押角駅には立ち寄らずに終わった。運転手さんには詫びられたが、遠くからでも山の中に在る押角駅の存在を見ることができただけで、むしろそのことで心が満たされていた。お礼を言って茂市駅でバスを降り、再び山田線に乗って盛岡へ戻った。

 

 

 

その後2014年に岩泉線は復旧することがないまま廃線となり、旅客輸送の役割はバスに引き継がれた。もともと日本一の赤字路線という大変不名誉な称号を持っていたこともあり、路線バスへの移行は仕方ないことなのかもしれない。廃駅となった押角駅跡にはバスも停まらなくなり、今は茂みの中にうっすらとその面影を残すのみとなっているようだ。

最近になってふと、結局お目当てには乗れず行けずだったのに妙に心に残ったこの変な旅を記録することを思い立った。実家で眠っている古いパソコンに入った写真データを書き出して「さて書くか」と当時の旅ノートを開いたら、今日がちょうど12年前に岩手に向かったのと同じ12月10日だったので驚いた。12年も前のことを何を今更とも思ったが、ノートと写真を見返しながら文章をまとめているとまるでタイムマシンに乗ったような気分で旅を追体験できたので、まあ、これはこれでヨシとしたい。

おしまい